2019年11月第36回「『飽きた』についてかんがえる」
- 西塚孝平
- 2019年11月19日
- 読了時間: 3分
更新日:2021年6月22日
今日のテーマは「飽きた」でした。まずは参加者9名で飽きた経験、そして飽きずに続けられる経験を語り合いました。日常生活が単調で飽きてきたこと、好きな音楽が飽きてしまったこと、一方で好きな数学はずっと続けられること、そして食べること…。飽きる原因をまとめてみると、単調なこと、生活に必要ないと思うとき、変化が見つけられないとき、流行・トレンド・一発芸、自分で自発的に始めたものではないこと、何かを始めることをゴールにしてしまってそこに達成感をもってしまうとき、気持ちがこもっていないから…。逆に飽きない状態とは、何かを犠牲にしてでもやりたいこと、欲求を満たしてくれること…。(※詩人の谷川俊太郎氏は創造性を「ものごとに飽きる力」と答えているように、「飽きた」をポジティヴな意味で捉えることもできそうです。例えば、単調さとは新しい事柄や活動の可能性に気づき始めているからこそ、感じられるのかもしれません。)
でも同じ物を食べ続けていると、飽きるのではないでしょうか。「寝るのが飽きた」「トイレに行くのは飽きた」とは言わないけど、「タピオカ飽きた」とは言いますね。すると選択肢があるときは飽きる可能性があるということなのでしょうか。それとも、食べること自体に飽きはなく、食べ物に飽きるということでしょうか。また、「生活に必要なことは飽きない」について、どうして勉強は必要なのに飽きるのでしょうか。これについてある参加者が説明するには、「心の中では本当は必要ないと思っている」とのこと。「最初から嫌いだったら飽きないのではないか?」という考えも出ました。変化があるからこそ「飽きた」という感情が芽生えるようです。しかし始めのほうでは「変化が見つけられないとき」が「飽きた」とも言っています。この変化は同じものなのでしょうか。
対話は「飽きた」と欲求の関係に移りました。まずは自分の人生や生活に必要だと「飽きる飽きない」という考えはそもそも存在せず「するしない」があるのではないかという発言がありました。確かに「息をする」のは、私たちが息を吸いたいと思って意識を集中しているわけでもありません。それは生きていくための自然な行為(するしない)です。そこで、「飽きた」を説明するための様々なモデルが検討されました。欲求→「するしない」→「飽きる飽きない」を通過していくのではないか?しかし「仕事ではしているのに飽きている状態がある」から、単線の段階説ではないのでないか、など。最終的に、「する→する→する→しない」という行為選択のなかで、「する→しない」の間にある「矢印」に「飽きた」があるのではないかということでした。この場合、単調な作業や音楽を聴くこと自体に「飽き」はなく、行為の選択場面で働く力といえそうです。このとき欲求(したいしたくない)は、その選択に作用する要因となります(※つまり「したくない」と思っても「する」ときがあるということです。すると「したいしたくない」以外の要因も考えられそうですね)。
話は尽きることなく、あっという間の90分間を過ごしました。参加してくださった皆さん、ありがとうございました!ぜひグラフィックの軌跡を辿りながら、「飽きた」について「飽きる」まで考えてみてくださいね (*’ω’*)
次回は11月25日4講時に「うらやましい」について考えます。当日参加もお待ちしています!(定員制のため事前予約がおすすめです☆)
☆グラフィック☆



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