【第41回】SNSについてかんがえる
- 西塚孝平
- 2020年1月16日
- 読了時間: 3分
更新日:2021年6月22日
2019年12月17日火曜日。
今回のテーマはSNSでした。はじめに、参加者の皆さんがどのようなときにSNSを使うのかを共有しました。Instagramに思い出を残しておくために、外国人の近況に「いいね」するために、共感や自己主張のために…。「SNSのために思い出を作る」「いいねをもらうために何かする」といった、SNSという道具が行動や欲求を促しているとも考えられますね。
活動を広げる以外にもSNSが促すメリットは、言ったことを文字で残せる、みんなが言えないことを話せる、時間を気にしなくてOK、大したことのないことでも共有できる(対面で話すことのないほどの内容の共有)などが挙がりました。
では、これらのSNSの手軽さはどこから来るのでしょうか。感情が伝わりにくいだけに感情を自分で作りやすい、返信を求めていない、現実よりも責任感が弱い、物理的に操作が簡単、匿名性がある、考える時間が与えられるのことへの時間的な余裕が生まれるなど、自分の意志で働きかけることのできる操作性や選択と意思決定の自由の幅に広がりがあることが分かりました。
一方でSNSの危害はどういったところにあるのかについて、話が進みました。1回始めると止まらなくなる(中毒性がある)、本当に大事なことが見えなくなる危険性がある、新鮮味が薄れてしまうので実際に話したほうが面白い、など。仮想と現実のつながり方の違いが少しずつ見えてきました。
ここで、いくつかの疑問が浮かび上がってきました。SNSでは、本当に相手の反応を期待していないのでしょうか。ある参加者は、「『適当につぶやく』とは建前でいうけど本音は違うかもしれない」と言います。なかには、SNSを感情を吐き出す場にする人もいます。しかし、「フォロワー0人と、家で独り言をいうのは何が違うのか?」という声が上がったように、自分自身と対話をする分であれば独り言やノートを使って感情を整理すればいいのに、なぜ「あえて」SNSでフォロワー0人のTwitterに感情を吐露するのでしょうか。これは単に「手軽だから」という理由以上の、「どこかの誰かとつながれるかもしれない」ことへの期待感や、「自分はここにいる」ことを疑似的に体験したい考えが、少なからず影響しているのかもしれません。
最後に、現実とSNSのつながりにもう一度対話が戻っていきました。ある参加者は「SNSの関係の切れ目のほうが痛みが大きい」と言います。ここには、「SNSは気軽なのに気軽に思えない」という葛藤があるように思えます。別な参加者からは「相手の反応があると嬉しい(既読スルーは辛い)」という発言も。これは、対面だと受け止めてくれたことが分かる、つまり相手の応答責任を看取する義務を伴うけれど、SNSは責任の関係が双方との間では作られにくいということを意味しています。別な見方をすると、もしかすると、期待していないけど返信が来たら嬉しいという、敢えて自分自身に「遊び」を作って、その差分で幸福を感じるという心理も含んでいるのかもしれません。SNSは、自分の心理欲求を乱すこともありますが、それを満たすための道具としても機能しているようにも思われます。
SNSにも様々なタイプがあります。今回の対話は特定のSNSに縛られずに、広く現実と仮想のつながりとの差異を主題に対話を進めていきました。避けることのできない情報化社会のなかで、私たちはSNSをどのように生活のなかに抱き込み、共存していくべきなのでしょうか。どのように扱うことができれば、人生をますます豊かにすることができるのでしょうか。こうした「本質的な問い」が少しでも心のなかに残り続けてほしいことを願って、今回のかんがえるソファは終了しました。
現実とSNSのつながりという二分法で考えてしまっていますが、SNSは既に現実あるという意味では、この前提も違うのかもしれません。皆さんもぜひ、SNSについて思いを巡らしてみくださいね!


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