第45回空気を読むについてかんがえる
- 西塚孝平
- 2020年1月24日
- 読了時間: 5分
更新日:2021年6月22日
2020年1月24日金曜日。
2019年度最後のテーマは「空気を読む」。
今日は参加者にファシリテーターをお願いして、12名の参加者と一緒に対話を進めたスペシャル回になりました。
最初の問いは「あなたは空気を読む?それとも読まない?」。「あえて読まないで正しい方向に流れを正していく」「悪い意味で周りに合わせる」といった声が挙がりました。「空気が読めない」「空気を読みすぎて疲れる」という意見も。
そもそも空気を読むってどういうことなのでしょうか。ある参加者は「相手との信頼関係(距離感)で変わる」と言いました。でも、信頼関係があるからこそ自分の意見を言えるときもあれば、何も考えずに相手の調子に合わせることもあります。どちらが空気を読んだ行動なのかどうかを決定づける要因が別にありそうです。別な参加者は、「空気を読む」+「行動する」の2段階があるのではないかという提案が、さらには自分にとってその事柄がいかに重要なのかどうかが関係してくる等の発言がありました。
そこで、「空気を読む」と「雰囲気を合わせる」の関係性がどうなっているのかを探求してみることにしました。「『空気を読め』という上司の命令には行動が伴っているのではないか」「本来『読む』なのだから察することが内包される意味なのではないか」などが挙がりました。ただこの一連の対話は「別々に考えたほうが定義するうえでは望ましいのではないか」という結論に至りました。
この後に、空気を読まないことが「面白さ」を生む事例として、お葬式でオナラをした子どものエピソードに耳に傾けました。空気を読むと未来が予測可能になるので面白くなくなることもあるのかもしれません。
次に、「そもそも空気とは何か?」を問うことにしました。情報、その場の大多数の人の思い、言葉以外の情報、求めている態度や期待している結果など。ここからさらに、「なぜ『空気』なのか」という疑問が湧き上がりました。確かに、なぜ雰囲気や流れとかではなく、あえて人と人との間に流れている「空気」が比喩として選ばれたのでしょうか。また、「何が空気を作るのか」という疑問も挙がりました。例えば、お葬式のエピソードになぞらえれば、粛々と式を進行するという「目的ある場」がそれに当てはまります。つまり、文脈やバックグラウンドが空気の生成源だと考えられるようです。
一番長い時間をかけて考えたテーマは、「何のために、誰のために空気を読むのか?」でした。もし自分が空気となって流されれば、それは現状維持となって楽で安心な一方で、空気から自覚的に逸脱するには勇気が要る分、場の変化をもたらします。自分の利益のためであると主張した興味深い視点として「周りの空気を読むフリをして自分の望む方向にもっていくこともある」と発言された参加者もいました。つまり、空気を利用して自分は責任から逃れたり、個人の意思を間接的に空気を通じて伝える技を人間は使用するというのです。確かに、「自分は○○だと思う」と直接伝えるには度胸がいるし、周りからは冷たい目を向けられ、さらには関係性を崩壊させてしまう危険も伴います。私はこのことを、「空気」という全体(集団レベル)に底流している大きな矢印を利用することで、個人レベルの小さな矢印を「隠蔽する」行為だと理解しました。もう一つ、自分の望む方向にもっていく方法として私が考えたことは「事前に根回しをする」ということです。集団が全体として同じ方角を向くように予め調整しておけば、議論の結果を思う通りに得ることができます。これは「空気を作る」行為だといえるのかもしれません。
隠蔽するといっても自己犠牲するのとは異なります。どうやら空気を読むことは決して悪い意味だけではないようです。円滑なコミュニケーションを生み出したり、関係性を保ったり、空気を読まないことで生まれてくる面白さを得ることが利点として共有されました。
最後は、空気を読むことのイメージや構造モデルが提案されました。一つ目は、「情報を読み取る」ことと「行動する」ことの間には、「一瞬考える時間」があるのだという考え方です。これは、入力された情報を感覚受容を通じて選択を行い、行動として出力していくという、学習の認知主義モデル(情報処理的アプローチ)に類似した考えだと私は解釈します。もう一つは、空気とは目標に向かう流れであり、空気を読む以上、何らかの予想される帰結や展開を私たちは共有しています。その流れが悪い方向に向かうと認識した際には、自分の意思を発揮して全体の流れを修正したり、良い方向であればその波に乗る。そうした目標に方向づけられた集団的潮流を見極める行為が「空気を読む」であるという考えです。
最後に、私が考えたことを書き残します。ひとむかし前にKYというフレーズが流行りました。近年は、ある分野領域において特異に突出した能力やセンスを発揮するハッカーやギーク、変態、ギフテッドなどが取り上げられています。彼らは一見すると「集団的潮流と逸脱した行動をしている」という意味で「空気が読めない」と外部からみなされることがあります。しかし、「集団的潮流を見極めたうえで正しい方向に先導する」という意味では「空気が読める」人だと理解することも可能です。このように、集団が織り合わせた文脈としての空気は「受け入れられる世間の常識」や「過去から遡って当然視されてきたコミュニティアの中の事実」にとどまることなく、「未来に予想される活動の方向性がいかなるものであるのか」との関連からも、深く検討ができそうです。
実は、今回のテーマは過去にも行ないました!(https://kikakuslatohoku.wixsite.com/sla-project/single-post/2019/01/16/1%E6%9C%88%E7%AC%AC2%E5%9B%9E%E3%80%8C%E3%80%8C%E7%A9%BA%E6%B0%97%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80%E3%80%8D%E3%81%AE%E3%80%8C%E7%A9%BA%E6%B0%97%E3%80%8D%E3%81%A3%E3%81%A6%E4%BD%95%EF%BC%9F%E3%80%8D)議論の軌跡はある局面では重なっていますが、かなりの部分は違っているので、合わせて見てみてくださいね!
今年度も、多くの方にご参加いただき、ありがとうございました(*'▽')
来年度も引き続き定期開催していく予定なので、ぜひお気軽にご参加ください。
皆さんのご参加をお待ちしています!


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